川崎大空襲の戦災写真をカラー化しました
【川崎市市制100周年記念事業】
川崎市市制100周年を記念し、川崎市平和館(川崎市中原区木月住吉町33―1)が所蔵する「川崎大空襲の戦災を写した白黒写真」9枚をカラー化しました。
人工知能(AI)画像認識を使用して白黒写真を自動着色し、空襲体験者にその写真を見てもらい、当時の記憶や体験談を聞き取りながら、写真の色彩を補正する作業を行い完成させました。
カラー化した写真は、令和7年3月8日(土)から5月6日(火)にかけて川崎市平和館において開催する「戦後80年 川崎大空襲記録展~戦時下の市民生活と川崎大空襲~」で展示します。カラー化した写真を活用し、戦争が市民にもたらした「痛み」を風化させることなく、川崎大空襲の記憶と戦争体験者の想いの継承を図っていきます。
1 カラー化した戦災写真(9枚)
(1)ひそかに撮られた戦災 (市役所3階から明治産業方面を撮影)
(2)市役所付近の焼け跡 (平和通りから市役所方面を撮影)
(3)焼け跡に建つバラック小屋 (渡田新町から市役所方面を撮影)
(4)焦土と化した市街地 (六郷橋付近から市役所方面を撮影)
(5)多摩川下流の惨状 (六郷橋付近から多摩川下流を撮影)
(6)六郷橋付近の焼け跡 (六郷橋付近から蒲田方面を撮影)
(7)迷彩塗装された市役所 (稲毛神社付近から市役所を撮影)
(8)迷彩塗装された警察署 (貝塚通りから川崎警察署方面を撮影)
(9)進駐軍向け案内標識 (新川橋交差点の一角を撮影)
2 川崎大空襲とは
昭和20年(1945)4月15日夜半、B-29爆撃機194機が来襲し、焼夷(しょうい)弾12,748発(1,072トン)、高性能爆弾72発(18トン)、破砕性爆弾98発(20トン)を投下しました。火災は翌16日午前5時頃まで続き、川崎市の中心部は市役所などを残して焼野原となりました。被害は全半焼壊家屋33,361戸、同工場等287、罹災者は10万人を超えました。川崎市が空襲で出した死者約1,000人、負傷者約15,000人の大半は、この空襲によるものとみられます。
川崎市は市制100周年
次の100年に向けて「あたらしい川崎」を生み出していくためのスタートラインとして、オール川崎市で、多彩な記念事業「Colors,Future!Actions」を展開しています。
▶川崎市市制100周年記念事業公式ウェブサイト https://kawasakicity100.jp/
「全国都市緑化かわさきフェア」
次の100年に向けて、みどりについて皆さんと一緒に考え行動することで、誰もが暮らしやすく住み続けたいまちへとつなげていくため、開催します。
▶全国都市緑化かわさきフェア公式サイト https://green-for-all-kawasaki2024.jp

「カラー化した戦災写真」の例
(左:白黒写真 右:カラー化した写真)
写真1 ひそかに撮られた戦災


この写真は川崎大空襲から10日後に憲兵の目を盗んで川崎市役所3階からひそかに撮られた。(撮影:昭和 20(1945)年4月25 日)「川崎市平和館提供」
写真2 市役所付近の焼け跡


川崎市役所(現 復元棟)は防空偽装のために迷彩塗装されていた。戦災復興が始まり、建築中の家屋も見える。(撮影:昭和 20(1945)年)「川崎市平和館提供」
写真3 焼け跡に建つバラック小屋


バラック小屋は焼け残った柱や立ち木、トタン板などを拾い集めて作られた。バラック小屋の手前に防空壕 の入口が見える。(撮影:昭和 20(1945)年 8 月頃)「川崎市平和館提供」
カラー化した写真は、空襲体験者の記憶や資料などを基にできる限りの「再現」を行ったが、実際の色彩と異なっている可能性はある。
このプレスリリースには、メディア関係者向けの情報があります
メディアユーザー登録を行うと、企業担当者の連絡先や、イベント・記者会見の情報など様々な特記情報を閲覧できます。※内容はプレスリリースにより異なります。
すべての画像
- 種類
- イベント
- ビジネスカテゴリ
- 政治・官公庁・地方自治体
- ダウンロード